平将門とは?
平将門(たいらのまさかど)は平安時代中期に活躍した武将です。
関東地方を本拠に勢力を伸ばし、939年には朝廷に反旗を翻して自ら「新皇(しんのう)」と称しました。
これは東国の独立を目指した大規模な乱(承平天慶の乱)で、将門は一時関東の国府を占拠するほどの勢いを示しました。
しかし翌940年、朝廷の派遣した藤原秀郷・平貞盛ら討伐軍との戦いに敗れ、将門は討ち取られてしまいます。
こうして将門の乱は鎮圧され、彼の野望は潰えました。
ところが、その死後に平将門の名は思わぬ形で歴史に刻まれることになります。
京都で晒された将門の首級はただの敗者の証に留まらず、人々の恐怖と想像力をかき立てました。
将門は死後「怨霊」となったとも伝えられ、日本三大怨霊の一人として数えられるほど恐れられる存在となったのです。
後にその霊を鎮めるため、各地に将門を祀る神社(東京神田明神など)が建立されるなど、彼は歴史上の人物であると同時に伝説的存在として語り継がれていくことになりました。
では、なぜ一介の武将であった平将門が妖怪さながらの怨霊伝説の主役となったのでしょうか。
その知られざる関係をひも解いてみましょう。
なぜ平将門は妖怪になったのか?
将門の最期には、後世に様々な怪異譚が付け加えられました。
伝説によれば、討たれた将門の首は京都の河原で晒された後も怨念に満ちており、なんと首だけで笑い声をあげたり、目を見開いて歯ぎしりしながら「今一度戦いたい」と毎夜呟いたといいます。
さらに首は三ヶ月経っても腐らず、ついには復讐を果たすべく胴体を求めて空を飛び、故郷の関東へ向かったとも語られています。
それほどまでに将門の執念が強かったため、彼は怨霊と化してしまったというのです。
この「飛ぶ首」のエピソードこそ、将門を妖怪的な存在へと押し上げた象徴的な伝説です。
飛び去った首は力尽きて関東の柴崎(現在の東京・大手町付近)に墜落し、落ちた首を村人たちが手厚く葬って塚を築いたと伝えられています。
これが有名な「平将門の首塚(将門塚)」の始まりです。
さらに将門の怨霊は、生きていた頃に自分を斬った者や朝廷に祟りをなすとも噂されました。
首塚から将門公が蘇るのではないかという復活の噂や、「将門の祟り」による災いを恐れる声も広まり、将門は次第にただの反逆者ではなく、祟り神あるいは妖怪のような存在として認識されるようになっていったのです。
妖怪化した平将門
平将門の怨霊伝説は時代を下るにつれて各種の伝承や文献に記録され、物語として深化していきました。
特に江戸時代になると、将門の怪異譚は庶民の間で広く語られ、多くの書物に登場します。実は、前述の「首が空を飛んだ」という物語は、江戸時代以降の創作であることが判明しています。
その初出は江戸幕府の頃、浅井了意(あさい りょうい)による江戸名所案内記『江戸名所記』(寛文2年・1662年)であり、この書物に将門の首が東国へ飛来する逸話が記されたのが最初だとされています。
それ以前の平安~中世の史料にはそのような記述は見られず、伝説は後世に創られ膨らまされたことがわかります。
江戸期には怪談や軍記物、芝居など様々な形で将門の霊が取り上げられました。
たとえば江戸後期の地誌には、晒し首となった将門の首がなお恨み言を語る様子を葛飾北斎が挿絵に描いており、人々の記憶の中で将門の霊は明確に妖怪じみた存在として刻まれていたことがうかがえます。
また、将門の子孫とされる陰陽師・安倍晴明がその怨霊を封じたという伝説や、逆に晴明は将門の孫だったというような奇談まで生まれています(これらも後世の創作です)。
中世には将門の霊を鎮めるための信仰も生まれており、徳治2年(1307年)には遊行僧・他阿真教上人が荒廃していた首塚を見かねて供養を行い、将門に「蓮阿弥陀仏」という法名を贈って霊を慰めたところ疫病が治まったという記録もあります。
この時、隣接する神社(当時の筑土明神)に将門の霊を合祀し、「神田明神」と名を改めたとも伝えられています。
こうした史実と伝承の交錯により、将門は怨霊として畏れられる一方で神社に祀られ崇められる存在ともなりました。
すなわち、人々は将門を「祟れば恐ろしい怨霊、祀れば守護神」という二面性を持つ霊的存在として受け入れていったのです。
実際の歴史と伝説の違いは?
史実における平将門と、後世に語られる妖怪じみた伝説との間には大きな隔たりがあります。
実際の歴史記録をひも解くと、将門の最期は極めて人間的なものでした。『将門記』など同時代の記録によれば、将門は戦いの中で流れ矢に当たって落馬し、討ち取られたと伝えられています。
討伐軍の武将である藤原秀郷が駆け寄り、その首を斬ったという具体的な描写もあり、首が自ら飛び去ったなどという超常的な出来事は記されていません。
当然ながら、首が笑ったり喋ったりといった怪奇現象も当時の公式記録には登場しません。
京都の市中に晒された将門の生首は、あくまで反逆者に対する見せしめであり、それ自体は史実の範囲内の出来事でした。
それでは、なぜ将門の伝説だけがここまで怪奇色を帯びて発展したのでしょうか。
一つには、日本文化に根付く「怨霊信仰」の存在があります。
平安時代の人々は、非業の死を遂げた者や無念を残した者の霊が祟りをなすと信じ、恐れていました。
将門は朝廷に反逆し討たれた悲劇的な武将であり、その無念は強い怨念となって世に災いを及ぼすのではないか、と当時の人々が感じても不思議ではありません。
同じ時期に怨霊として恐れられた菅原道真や崇徳上皇と並び、将門もまた「祟り神」として語られる素地があったのです。
後世、地震や疫病などの災害が起こると「将門の祟りではないか」と噂されることもありました。
また、江戸時代には怪談ブームや軍記物の流行があり、将門の物語は娯楽や教訓として脚色されて広まった面もあります。
特に前述した首塚伝説のように刺激的なエピソードは人々の関心を引きやすく、創作と分かっていても語り継がれるうちにあたかも真実であったかのように思われていったのでしょう。
つまり、史実の将門と伝説上の将門は別物であり、実像は一介の地方豪族の乱に過ぎなかったものが、伝説では怨霊・妖怪として独り歩きしたと言えます。
その違いを理解しつつも、我々は歴史の中で育まれたロマンとして将門伝説を捉える必要があるでしょう。
現代に息づく将門伝説
将門の首塚は東京の一等地・大手町に今なお祀られており、再開発が進む都心にあって不自然なほど空き地として保存されています。
実はこの場所、過去に不用意に扱われた際に幾度も怪異じみた事故が起きており、その「祟り」が忌避されてきた経緯があります。
関東大震災(1923年)の後、焼失した大蔵省(財務省)の仮庁舎を建てるために一度首塚の塚丘が取り壊されたことがありました。
ところが工事に関わった大蔵大臣や技師らが次々と急死し、合計14名もの関係者が亡くなる事態となったのです。
この不幸な出来事に人々は戦慄し、「将門の祟り」が現れたと噂されました。そして太平洋戦争後の占領期にも、GHQがこの土地を駐車場にしようとブルドーザーで整地を試みた際に重機が突然横転し、運転手が亡くなる事故が発生しています。
立て続けに怪事故が起こったことで、進駐軍ですら計画を中止せざるを得なかったといいます。
こうした経緯から、将門塚は二度と軽々しく動かしてはならない“禁忌の地”として認識されるようになりました。
実際、現在その周辺を開発する企業も首塚を避けてビルの設計を行っており、毎年欠かさず慰霊祭を行う企業もあるほどです。
首塚の前に尻を向けてデスクを配置すると祟られる、といったビル街の都市伝説まで囁かれるほど、将門の怨霊伝説は会社員の間にも浸透しています。
令和に入った現在でも、将門伝説への関心は根強いものがあります。
令和3年(2021年)4月には将門塚の老朽化した周辺設備の改修工事が行われ、その際にもメディアで将門の祟りが話題に上るなど、多くの人が改めてこの伝説に注目しました。
幸い大きな事故もなく改修は終わり、今では首塚もきれいに整備されています。
それでも、工事中には塚の祠を仮設のものに移し、背後の五輪塔を防護ケースで覆うなど、霊を刺激しないよう慎重に作業が進められたといいます。
こうした慎重さからもうかがえるように、現代においても将門の霊を畏れ敬う気持ちは確かに息づいているのです。
平将門は歴史上の人物でありながら、その死後に怨霊・妖怪伝説の主役として異例の存在感を放つようになりました。
武将だった彼が何故ここまで恐れられる霊になったのか――その背景には、史実と伝承が交錯し、人々の恐怖と信仰が生み出した物語がありました。
史実の将門を知ることで伝説との違いが見えてきますが、それでもなお将門伝説は日本の歴史文化に根付いた魅力的な物語として語り継がれています。
現代の東京の一角に残る首塚を前にすると、事実とフィクションの境目を越えて将門の存在を感じる人もいることでしょう。
平将門と妖怪伝説の不思議な関係は、これからも多くの人々の想像力を刺激し続けるに違いありません。
参考文献・出典
平将門に関する歴史資料や伝承については、『将門記』などの軍記物、浅井了意『江戸名所記』、および日本各地の伝説集などを参照。
現代に残る、平将門ゆかりの地を巡る
将門伝説は物語の中だけにとどまりません。
現代でも、彼にまつわる地は全国各地に点在しており、訪れることができます。
ここでは、実際に行ける代表的なスポットを地図付きでご紹介します。
将門塚(東京都千代田区・大手町)
平将門の首が京都から飛来して落ちたとされる地。
都心のビル街のど真ん中にありながら、神聖で静寂な雰囲気が漂う“異空間”として今も保存されています。
ここから将門の祟りが始まったとされ、祠を粗末に扱うと災いが起こると恐れられています。
住所:〒100-0004 東京都千代田区大手町1丁目2−1(東京メトロ「大手町駅」から徒歩1分)
神田明神(東京都千代田区)
江戸の総鎮守として知られる歴史ある神社。
現在はITやアニメ関係の聖地としても有名ですが、主祭神の一柱として平将門公が祀られています。
将門の霊を鎮めるため、後世に合祀された神社で「怨霊として恐れられた将門を、守護神へと昇華させた」代表的な例です。
住所:東京都千代田区外神田2丁目16−2(JR中央線・総武線「御茶ノ水駅」(聖橋口)より徒歩5分)
国王神社(茨城県坂東市)
将門の本拠地・坂東の地にあり、彼の偉業を称えるために建てられた神社です。
社殿には将門像や資料が展示され、地域の誇りとして守られています。
神田明神は「祟りを鎮める」神社、一方、国王神社は「将門を英雄として敬う」神社。
つまり、怨霊としての将門と、ヒーローとしての将門の両方が祀られているのです。
住所:茨城県坂東市岩井951(つくばエクスプレス「守谷駅」から車で約30分)
筑土八幡神社(東京都新宿区)
将門の霊が合祀されていたという説もある、小さな八幡神社。
かつて神田明神がこの場所にあったとも伝えられています。
住所:東京都新宿区筑土八幡町2−1(東京メトロ「飯田橋駅」から徒歩約5分)
日秀将門神社(千葉県我孫子市日秀)
千葉県我孫子市日秀地区に位置し、平将門を祭神とする神社です。
手賀沼を眼下に望む丘陵の南端に鎮座し、地域の歴史と文化を伝える重要な場所となっています。
住所:千葉県我孫子市日秀131(阪東バス「日秀観音バス停留所」から徒歩約8分)