白沢(はくたく)伝説|人と妖の境を見通す霊獣

白沢とは

白沢(はくたく)は、白く輝く毛並みに三つの目と六つの角を持つと伝えられる、霊的な存在である。
その姿はどこか神聖で、恐れよりも知性と慈悲を感じさせる。
毛は雪のように純白、瞳は黄金に輝き、見る者に「知恵の光」を想起させるという。

古来より白沢は、「善悪を超えて真実を見通す存在」として描かれ、ただの妖怪ではなく、人を導く神獣として崇められてきた。
中国では「瑞獣(ずいじゅう)」、日本では「霊獣(れいじゅう)」とされ、麒麟や獏、龍などと並ぶ高位の存在として語られている。

中国伝承における白沢の起源

白沢の名が初めて登場するのは、中国の古代伝説においてである。
黄帝(こうてい)が東の海辺を巡行していたとき、白い獣が現れて道を塞いだ。
その獣こそ白沢であり、黄帝に対して人間界に現れる三千の妖怪・鬼神の正体と、それぞれへの対処法を語ったという。

この伝説がもととなり、後に編まれたのが『白沢図(はくたくず)』である。
この書は、妖怪の姿・性質・害の有無・祓い方などを詳細に記した図録であり、「人間を災厄から守る知恵の書」として広まった。

以後、白沢は「妖怪識別と退魔の知識を司る霊獣」として崇められ、護符や屏風絵などにその姿が描かれるようになった。
人々はその絵を飾ることで、病や疫病を遠ざけることができると信じた。

日本に伝わった白沢信仰

奈良・平安時代に陰陽道が盛んになると、中国由来の霊獣・霊符文化が日本にも伝わった。
白沢もそのひとつである。
当初は宮中や貴族階級での護符として広まったが、やがて江戸時代に入ると庶民の間にも「白沢図」が流通し、疫病除け・家内安全の守護札として信仰された。

特に江戸期には、版画師や絵師によって数多くの白沢図が制作され、「この家には白沢が宿る」と言われるほどの人気を博した。
また、寺院や神社の中には白沢を守護獣として祀る例も見られ、陰陽師の護符としてだけでなく、民間信仰の対象としても根付いていった。

白沢伝記「黄帝と白き霊獣の語らい」

むかし、中国の古代。
天下を治める聖王・黄帝(こうてい)が東の海辺を巡っていた。
大地は乱れ、妖(あやかし)や邪霊が人々を苦しめ、国は混迷のさなかにあった。

そのとき、白く輝く霧の中から、一頭の獣が現れた。
毛並みは雪よりも白く、額には三つの金の瞳があり、頭には六つの角が天を貫いていた。
その姿は恐ろしさよりも、神聖な静けさを帯びていた。

黄帝が問うた。
「そなたは何者か。」

白き獣は、落ち着いた声でこう答えた。
「我は白沢(はくたく)。天地の理を知り、あらゆる妖(もの)の正体を見通す者なり。」

黄帝は驚き、馬を下りて敬意をもって頭を垂れた。
白沢は続けて語る。

「この世には、三千の妖(あやかし)がいる。
そのうち、善なる者は人を守り、悪しき者は人を惑わす。
彼らを見分けることこそ、国を正しく治める道である。」

そして白沢は、妖怪たちの名、姿、習性、そして祓い方までも語り始めた。
黄帝はそのすべてを記録し、後に『白沢図(はくたくず)』としてまとめたという。

この書は、災厄を防ぐための知識の書として宮中に伝えられ、
白沢の姿を描いた図を門に掲げることで、邪気が入らないと信じられた。

白沢は最後にこう言い残して、再び霧の中へ消えた。

「人が恐れるのは、知らぬゆえ。
知れば恐れは消え、恐れが消えれば、光が差す。」

時代が移り、日本にも白沢の名は伝わった。
平安の都では、陰陽師たちが白沢図を写し、宮中の守り札として使ったという。

ある年、都で疫病が流行したときのこと。
夜、夢の中に白き獣が現れ、一人の陰陽師に語りかけた。

「この病は、人の恐れと疑いが形をなしたもの。
心を静め、水を清め、互いに疑うな。
さすれば災いは去るであろう。」

翌朝、陰陽師はその夢を絵に描き、人々に配った。
それが「白沢図護符」と呼ばれ、家々の入口に貼られるようになったという。

白沢はそれ以来、「疫病除けの神獣」としても信仰されるようになった。

白沢が残した言葉の本質は、恐れに対する知恵だった。

「知らぬことを恐れるな。
 見ようとする心こそが、道を照らす。」

白沢が伝えるメッセージ

白沢の伝説が今日まで語り継がれているのは、単なる妖怪譚としてではなく、「恐れに対する智慧の物語」だからだ。
人は未知を恐れるが、白沢はその「未知」を理解し、言葉にすることで、恐怖を克服する道を示した。

それは現代にも通じる教えである。
混乱や不安の時代にこそ、白沢のように冷静に物事の本質を見抜き、知識と理解によって恐れを超えていく。
——白沢とは、まさに「知による救済」の象徴なのだ。